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シンポジウム:“再び”環境と芸術の共創-“自然”と“地域”との共創から


2002年(平成14年)10月27日

主催:環境芸術学会

場所:淡路景観園芸学校多目的ホール

基調講演:Sung Wan-Kyung(韓国・アートディレクター)

ゲストパネラー:新宮 晋(アーティスト)

司  会:大森 正夫(京都嵯峨芸術大学)

パネラー:
竹田 直樹 (ランドスケープデザイナー・淡路景観園芸学校)
高須賀 昌志(アーティスト・埼玉大学)
谷口 文保 (立体造形作家・神戸芸術工科大学)
吉田 泰巳 (華道家・日本いけばな芸術協会)

http://www.iead.org/2002ac/symposium2002_3.html

□ 基調講演/Sung Wan-Kyung

空港や駅、さらには国際的なアートイベントなど国外の人がはじめて目にする公共空間を多く手がけるソン氏は、ソウルの金浦空港とインチョン空港の地下鉄駅に設置した自作品の壁画や天井ディスプレイなどをスライドで紹介しながら、韓国固有の伝統文化を表現する自身の制作手法とそれにまつわる市民反応などについて語られ、公共的場所での芸術作品の重要性を唱えた。
主題である「環境と芸術との共創」については、芸術総監督として立ち上げから深く関っている「光州ビエンナーレ」で2002年の今春企画した公共芸術プロジェクトの1つ「接続」を参考事例として報告された。このプロジェクトの主会場は、環境づくりの一環として芸術公園への造成が前提となった廃線跡地であるが、かつては植民地時代の記憶を留めた近代史的遺跡としての価値を持つ場所でもある。ここに国内外の建築家や美術家や写真家、さらには学生や市民が参加して廃線跡地の場所の意味を問い直す作品を展示する企画であり、光州市が推進している緑地空間との都市計画レベルでの芸術的な「接続」と、作家と市民との有機的なコミュニケーションを計る「接続」を追及することによって「芸術の都市的関与」モデルと「市民参加型の展示」モデルを提唱する取り組みであった。
また、韓国国内で展開されている様々な環境芸術的な公共作品の事例として、成長するグリーンの特質を利用した建築作品、空港建設用の石切り場跡の浄水場を公園化する建設プロセスなどを紹介されながら、急速に発達している都市環境に様々な自然との体験を可能にする場所づくりが市民から支持されている現状を報告された。さらに自然の生態系を芸術家が良く理解することと一般の人々が日常的に上手く付きあえる芸術環境、または作品が必要になっていることを提唱された。最後に、韓国や中国などの東南アジアのアーティストたちが広く参加できるネットワークのフォーラムを作り、環境と芸術との活動を共有してゆきたいとの希望を述べられた。

□ ゲストパネル発表/新宮 晋

「地球の上で遊び、この星の素晴らしさを伝えようということでこれまで作品を作ってきたけれど、地球のバランスが壊れてきた危機的な環境の中でアーティストはただ作品を作っていて良いのだろうか」という新宮さんは、世界規模のアートプロジェクト「ウインドキャラバン」について、スライドとビデオを用いて報告された。
地球がどういう星なのかをほとんど何も知らない、と言うことを知ったことが切っ掛けとなり、ロケハンで2年近くをかけて地球を代表する自然環境を探した様子と、その場所として選んだ6ヵ所?穏やかな日本の自然が残る三田市の水田、ニュージランド・オークランド沖の無人島、フィンランドの北極圏の凍結した湖、モロッコの風景に溶け込んだ土の村、果てしないモンゴルの草原、ブラジルの砂丘での出会いなどのエピソードや美しい写真などを詳しく紹介された。
設置された作品は 5メートル以上ある 2種類であるが、風車の形を変えないでセールだけをその場所にあわせて着け替える構想である。しかし、その場所の風景が変わって見える体験は、これまで一点一点自分のメッセージを伝えようとして作ってきた経験とは大きく異なり、ここでは作品がその地の人や文化と、その地の風や風景と出会う舞台装置であって主役ではないと言うことを知ることであったと回想した。
自身の作品が始めて風で発電し実用的に役に立ったこと、風を見誤り突風に飛ばされ入院したこと、ロケ時と形状が変わった砂丘での体験などのエピソード混じりに紹介され、自然との共創は現場での体験から生まれることを印象深く語られた。

□パネルディスカッション

大森
今回は”再び”「環境と芸術の共創」を議論するということですので、”自然”と”地域性”というものをテーマに議論していきたいと思っています。ただし、環境芸術というあまりにも広い範囲を示しております学会ですので、何かへとまとめていこうというよりは、その広がりというものを改めて考える機会になれば幸いかと思っております。そういった意味からも基調講演では、この上ないお二人に素晴らしいお話をいただきましたので、前座は不要とも思いますが、パネラーの方々にお話をいただく前に、改めてこのテーマの設定背景について少しだけ説明させていただきます。
まず今年は日韓共催のワールドカップやアジア大会が韓国であり、アジアがより一層近く感じる年でありました。また、世界的な環境問題に関しましては日本で議決された京都議定書が何かと話題になってもいます。さらに、今回の大会会場として空港建設のために自然を破壊した掘削跡地を再生する「夢舞台」と、環境造りをリードする人を養成する景観園芸学校と、さらには淡路という地域で開催されてきた世界環境芸術会議という3個所を主舞台にして行なっておりますので、テーマとして最もふさわしいものとして「地域性」、そしてそこでの「自然」環境というものについて議論していきたいと思ったわけです。
そこで、お一人ずつ自己紹介も兼ねながらオフィシャルな立場でのご報告をしていただきたいと思います。まずこちらの淡路景観園芸学校の竹田先生に出席していただいております。先程、景観園芸というのはこれまで芸術とはなんら関係なかったというお話をされておりましたが、それならば景観園芸という世界が今後環境芸術に対してどのように関わっていくのか、また芸術というものを主に扱われている立場の方々とのコミュニケーションの中でどのような問題点が現在あり、また今後どう発展していくのか、そのあたりについてお話いただきたいと思います。

竹田
ご紹介いただきました兵庫県立淡路景観園芸学校は、4年制大学を卒業した方を対象にした景観園芸専門課程、園芸療法課程、それと生涯学習のコースがあります。私は専門課程でランドスケープデザイン、園芸療法課程で庭園デザインを担当しています。個人的にはそれ以外に現代美術の批評や写真もしています。先程、大森さんがおっしゃられたように、例えば「庭」という問題があります。「庭」って芸術なのかどうかという議論が古くからあるのですけど、人がつくった部分と自然がそのままの部分が共存しているもんですから、「芸術だ」「いや芸術ではない」というような議論があります。まあ、これは観念論みたいなもので、どちらでもいいと思うのです。こういう問題は他にもあって、例えば、その代表が「盆栽」ですね。この学校に盆栽の先生がいるのです。中国からきたその先生に「盆栽を造るのは時間もかかるし大変でしょ?」って聞くと、すごく簡単につくる方法を教えてくれました。それは、「‘はじめから盆栽の木’というのがあって、それを取りに行けばいいんだ」って言うのです。この辺りにもあるのです。バスで来られた方は山の上が剥げていて岩が露出しているところがあちこちに見えたと思うのですが、ああいう所に行くと彼が言うところの‘はじめから盆栽の木’があります。要するにマサ土が崩壊して土壌に水分が少ないので、樹木が小さく育ち、盆栽の格好になっているのです。それを採取するわけなのですが、その時、私は、不思議な気持ちにとらわれました。‘はじめから盆栽の木’って芸術なの?って。
園芸植物も不思議な存在です。例えば、巨大な朝顔の花。いっぱい咲いていて、ものすごい紫色だったりする。これは品種改良により人がつくり出したものです。全く自然のものとは思えない色。大きさだったりする。これって、何なのでしょう。次は、錦鯉。日本庭園に欠かせない材料になっている。錦鯉を育てている人に聞くと、模様の入り方で値段が全然違うのです。うまい具合に模様が入るとすごく高いし、そうじゃないと安い。一所懸命いろいろ掛け合わせて工夫して、ああいう錦鯉をつくっているんだっていう話を聞いて、これも不思議なもんだと思ったのです。この淡路島は魚がいっぱい取れる所なのですが、ちょっとその辺の港に行くと、観光客には知られていない、魚を売っていないとわからない、島の人だけが知っているような小さな魚屋さんがあるのです。そういうところでは近海魚を扱っているのですが、小舟が取ってきた網の中の魚を分類して、同じ種類の魚を箱の中に入れていき、そのまま売るわけなのですね。まず、目の前の海の中にはこういう魚が泳いでいるのだということがわかるのが面白いし、生きているピチピチ動く魚を見るのも面白い。魚屋は、買いに来る地元のおばちゃんやおばあちゃん達のコミュニケーションの場になっている。この情景も面白い。こういうのを見ていると、現代美術館で観るインスタレーションとか、今流行りの「コミュニケーション型アート」などより、こっちのほうが面白いんじゃないかと思ってしまう。普段から考えている「環境芸術って、何なんだろうという?」というお話でした。

大森
人間がつくってない、というよりつくれない盆栽や朝顔や錦鯉の芸術性についてお話いただきましたが、今度は人間がつくるアートについて、学会に部会をつくって議論されていますグランドコンテンツアート研究部会の高須賀先生にお越しいただいておりますので、そのあたりについてお話願いします。

高須賀
本来、グランドコンテンツアート研究部会は池村さんが代表ですので適任でしたが今回は来られないので私が代わりにお話させていただきます。時間がないので簡単に報告いたしますと、グランドコンテンツアートとは何かと言いますと、まずその場に根づく情報というのをグランドコンテンツという呼び方をしています。地域ですとか、アート・芸術と様々に関係する情報です。人であり場であり時間であり、そういう様々な情報との関係からアートをとらえていこうということと、もう一つはグランドコンテンツアート研究部会として、なるべく外向きの活動をしていこうじゃないかと。池村さんがよくお話になることなんですが、例えば役所の仕事、いわゆる縦割り行政という言葉がありますけど、その中で仕事を進めていく上でアートというものの力と言うか、アートが介在することで有機的に縦割りだったものが逆につながっていけるという。そういう彼自身の実体験から、とにかくアートの有機的な力をこの学会で生かしては行けないのだろうか、というようなことから始めました。 今回会場の後ろにパネルを展示させていただいていますが、アトリウムアートの提案ということで、様々な若いアーティストの方の提案ですとか、事例の紹介ですとか、専門家の方々を招いてシンポジウムもさせていただきました。
もう一つ、個人的ではありますが、学会員でもある横尾さんという埼玉大学の同僚の先生のお仕事なんですが、デイサービスセンターといういわゆる痴呆の老人をケアする施設にギャラリーをつくって、そこで展覧会をされている活動をご紹介したいと思います。3年間くらいの期間をかけて取り組まれているそうですが、そこの医師の照沼先生というアートに非常に理解がおありになる方で、先生はもともと脳外科の脳の専門の先生で、最近シナプスとかなんだとか、専門家ではないのでよくわかりませんが、脳が痴呆でいったん壊れて回復しないと言われていましたが、最近の研究では回復することがわかってきまして、そんなとき、いろんな回復の為の訓練のときに、アートの力というものが相当数字的にも効力がある、そういうふうなことが実証されつつある。そういう話と結びつけてうまく取り組みされている。もう一方で、じゃあ作品をただ置けばいいのかといいますとそうではない。作品を置くことでデイケアセンターという隔離された施設なんですけど、ギャラリーを併設することで地域に開かれた施設に変えていく、あるいはそのことでいろんな人が関わりを持っていく。アートというものが単にその場にいる人たちのケアのための道具ではなくて、周りをどんどん取り込んでいく繋いでいくという、アートの役割として非常に幅広い取り組みをされています。そういう意味で今日皆さんにお配りしたパンフレットを見ていただければと思っています。

大森
グラウンドに根づく情報、または場との関係からアートを考えていこうという部会なんですけど、医療現場までもグラウンドとして捉えていこうということなんでしょうか?

高須賀
実際、去年は国土交通省を取り込んだので、今度は労働厚生省を攻めようかと、これは冗談ですが。グランドコンテンツアート研究部会としては学会の中に閉じこもるのではなく外向きに、分野を横断していくような、異分野との交流を実践していくような活動していこうかなと考えています。

大森
次に、今回この淡路という場所で学会を開くというのは、この学会の創立時からの会長であります山口先生の念願であったわけですけども、その山口先生が10年程前から開催しております世界環境芸術会議のことを中心に山口先生のもとでご一緒にされておりました谷口先生のほうから説明をしていただこうと思います。

谷口
私はこれまで、自然であるとか、時であるとか人間というものをテーマにした作品を創り続けてきたわけですが、一方で近年ワークショップという活動にも注目しています。実際に自分でもいくつか実践しながら、環境芸術と切っても切れないような大事な分野になっていくのではないかと感じています。私は、山口先生が淡路で展開していらっしゃいました世界環境芸術会議の2000年第8回の時にワークショップを企画する機会をいただいたのがきっかけで、それ以降そんなふうに考えるようになりました。これからそうした経験をもとに、世界芸術環境会議とその地域におけるワークショップなどの活動というものについて紹介できたらと思います。数枚のスライドがありますので、そちらを見ていただこうと思います。
世界環境芸術会議は山口勝弘先生が一宮町と一緒に1992年にスタートされました。淡路に芸術村をつくろうという構想をもとに展開されてきた活動です。もちろん現在も展開中で、今年は第10回の記念展ということで、新宮先生をはじめ多くの作家の方々が作品を出展された「環境造形コンクール展覧会」が開催され、昨日見学させてもらったわけです。これまでも毎年いろいろな催しが実施されてきました。例えば、メディアオペラ、インターネットデザインコンクール、様々なワークショップ、このワークショップに於いては自然をテーマにしたもの、科学、造形、音楽、それから情報、メディアといった様々なテーマのワークショップが実施され、これらの広がり自体が環境芸術に対する山口先生の考え方を物語っている感じがします。 今御覧いただいているのが一宮町にある「淡路島山勝工場」という名前の山口先生のアトリエです。御覧のとおり非常に大きくて、雄大な場所に建っています。こちらを関西の起点として東京の事務所と行き来しながら活動をなさっています。
ここからは2000年第8回のワークショップのスナップです。タイトルは「いざなぎの丘動物園」です。間伐材を利用して大きな動物を作ろうという、単純明快で老若男女だれでも楽しめる様なものをと考えました。誰でも楽しめることがポイントなのですが、小さなモノではつまらない。教室や家ではなかなかできないような身体より大きなモノを創る。また、人と人とが交流するというのが一つの大きなテーマですので、グループや共同作業でのコラボレーションでつくろうというのが特徴です。
家族で一緒につくったり友達同士でつくったりして面白いものができました。地域の人々が創造的な活動に取り組まれる姿勢がとても熱心であるだけでなく、もう一つ自然の持つ造形の豊かさですね、木々の形から想像しながら、どんな動物にみえるか考えながらやっていった結果、いろんな造形の展開に結びついていったのではないか。まさに自然と人々とのコラボレーションだったと思います。
翌年のワークショップは「卵と鳥の巣を作ろう」というものを考えました。古新聞に石膏のシートを巻いて大きな卵を作ります。その中には子供達の夢を書いたカードを入れました。地域にある間伐材と、ちょうど11月でしたので刈り入れの終わった藁を使って子供達が入れる鳥の巣が10個あまりできました。一つポイントとしまして、卵は子供達自身にとっての夢の卵であり、巣に入った子供達は地域の人たちという大きな鳥の目から見た雛鳥というか、未来ということで、ワークショップのメッセージが発信されています。
これらの活動を通して私が感じたのは「芸術が地域の触媒となって化学反応を起こし、地域の人々の創造性を刺激していく」という芸術の役割がこれからは重視されていくのではないかということです。それから、地域の人々と地域の素材・自然とが絡み合いながら作品や活動が生まれていくというところが環境芸術の重要なポイントだろうと感じました。これからもワークショップという観点、また地域という観点から考えていくことができたらなと思っています。

大森
地域の人々とのコミュニケーションから考えていくうえでは新宮先生と一緒だったわけですね。
最後になりましたが、先程園芸環境の時のお話にもあったのですが、自然素材というものをより一層主題的に扱われており、芸術という意味では比較的なかなか関わりがあるようでなかった「いけばな」という立場から芸術ないしは環境というものとどのように関わってこられ、また今後どう関わるのかということにつきまして、吉田先生よりお話いただければと思います。

吉田
ある時期、いけばなの世界はアートということに憧れ、私が所属しています日本いけばな芸術協会もその名称に「芸術」という言葉をわざわざ入れました。ただいけばなについては百人百通りの考え方があると思います。ですから一概にいけばなについて論ずるわけにはいきませんが、ただいけばなというのは江戸時代に育った環境柄、儒教的な雰囲気が多い。またそういうことを時代が必要として、結局、女性の花嫁修行的なものということでいけばなが積極的に取り入れられていた。ただ、最近の状況ではあらゆるところで少子化が問題になっており、いけばなの世界は一時の元気がなくなって、花嫁修行をする女性が少くなったのでしょうか、いけばなの世界もこれから新展開をしていかなければならないということで、何か刺激が欲しいなと思い、少なくとも異業種交流といいますか、自分とあまり関係のないようなところでの方々との交流からいろいろな知恵を受けたいと思い、環境芸術学会に入らせていただいております。
いけばなは床の間から出発して、下駄箱の上、テレビの上と、ずっと屋内に留まっていたわけです。34・5年程前になりますが、神戸で初めて「野外いけばな展」を提唱しました。神戸の須磨というところの鉢伏山の頂上で行なったのですが、いろんな挑戦のなかで、この頃の私がどういうふうにいけばなの世界を考えていたかと申しますと、床の間から出たということが原点でありました。床の間にはお軸が掛かっております。そこにいけばなをドーンと活けたりすると、お軸がわからなくなってしまう。置物も目立たない。ですからいけばなを活けるときには注意がいる。そういう雰囲気を壊さない、むしろそういう雰囲気を盛り上げる、最終責任があるわけです。ですから、私はいつも「いけばなは主役ではない」という考え方でいけばなに接しています。
いけばなは器に活けるわけですけれども、器をつくった作家の人のことを考えたら、器のいい雰囲気を壊さないようにと考えるとどうしても遠慮がちに活けてしまいます。いつでも相手があるわけです。ですから環境芸術を別の角度から考えますと、一つ一つの作品を別々に鑑賞して、良い悪いというかたちで美術界は流れてきたわけですけれど、日本の伝統的な日本画の世界にしても、お軸に絵が描いてある、襖に絵が描いてある、衝立に絵が描いてある。即ち、芸術は身近にあったわけですけれど、いつのまにか絵の世界も額縁の中に入ってしまって、別の世界と切り離された感じで絵を見るようになったわけです。いけばなの世界も百貨店で展覧会をするわけですけれど、一つ一つの作品を鑑賞していくスタイルが未だに続いております。ただ、床の間が出発点ですので、他のものとの関係、しかもいけばなは主役たり得ない。こういう考え方が環境と共生していくのに必要な考え方ではないかと思っているわけです。アーティストの方は、みんながみんなそうとは思いませんが、非常に自己主張が強い。自己主張が強いゆえに環境を破壊したり、自分が作ったものを最高だと思っているわけですから「俺の作品だ」となるわけですけれど、それが周囲の環境から遊離しているような場合や、いろんなケースがあるのではないかと思います。しかし私が考えるいけばな的な「いけばな」は主役たり得ない。いろんな部分に気を使いながら作品作りをしていくことが一番大事なことなのではないかと思っております。

大森
アートとは異なるいけばなと言いながらも吉田先生は昨日も国際会議場で山田脩二さんの瓦とのコラボレーションいう一つのアート・スタイルで展覧会をされるなど多彩に活動されております。
今日のパネラーには、だいたいお気付きかと思いますが、30代のこれからの方々と、もちろんこれからもありますが十分活躍された熟練の方々とに来ていただいております。
そこで新宮先生には、作品そのもののお話というよりは、先程フィンランドでのトナカイのお話の時に国境という地域づくりによってそこの自然が逆に壊れていっていることとか、作品そのもの以上の出会いを体感されることが多い活動をされていると思いますので、先生御自身のアート活動を通して今後の課題といいますか、何か見えているようなものがございましたらお話いただきたいと思います。

新宮
1つには、作品が全てではないという考え方は打ち出しております。それともう1つ、私がいま考えているのは地球全体のことを心配していまして、地球という星にどれだけの人間が住めるのかなという、この調子の生き方をしているようでは地球の将来は長くないなと。それでもいいんなら構わないんですが、人類がもう少し地球とうまくやっていく方法は何かないんだろうかということを今考えておりまして、これは、僕が生きている間にあと作品が幾つできるとか、どれをやり遂げてどれを諦めるかとか、そういう問題ではなくて、僕が考えるようなことに共感してくれる人が現れればそれでいいことであって、僕がいい歳をしているからもうしばらくしか活動の場がないと皆さんが思っていらっしゃるかもしれませんが、そうではなくて、僕の考えが人に乗り移っていけばいいんじゃないかと。自分の人生だけで何かを完結しようと思ったら非常に短い、ケチなことになってしまうと思っておりまして、そういうことを考えていきますと、作家自身の存在を否定することになるかと思うんですが、僕はもちろん個人のアーティストという位置よりは地球の将来を考えていくほうが大事だと思います。

大森
素敵なお話すぎてお返しする言葉もでないのですけれども・・。理想を直言されてしまいますと後が苦しいのですが、ここで少し若手に振ります。
もともと理系だということですけれど、画廊のほうに勤めたり、現代美術批評などのライターとしての活動もされながら今回は自然をモティーフにしたフォトグラファーとして、植物写真を発表されている竹田先生は、現代美術に対して一言おありかと思いますが・・。

竹田
私は長年、野外彫刻、現在ではパブリックアートと呼ばれるようになりましたが、の設置事業の研究をしてきました。これは山口県宇部市で1961年に偶然始まり、以後、日本全国に広まったものです。ではありますが、1990年代中頃、バブル崩壊と共に急激に少なくなってしまいました。駅前とか公園などに大きな彫刻を設置するというようなことをやっていたわけです。この事業が、地域とアートを結ぶということに関する、最もメジャーなやり方だったわけです。ただこのような事業が終わってしまった後、それでは次は何が地域とアートを結びつけるのだろうかと思い、いろいろ探していたわけです。今年に入って、大分市で「アート循環系サイト」、東京・台東区で「アサヒアートフェスティバル」、水戸市で「カフェ・イン・水戸」、帯広市で「デメーテル」などなどのアートイベントが、立て続けにありました。いずれも、これまでの都市や地域の魅力の再発見を意図するイベントです。コミュニケーションに関わる表現を重視するという特徴もあリます。一部のアーティストは、こういう都市や地域を舞台にしたテンポラリーなアートイベントに引っ張りだこで忙しくてしょうがないという状況がはじまっています。これは一過性のものとは思えません。40年間行われた野外彫刻の設置事業に代わるものとして、地域とアートを繋ぐこういうタイプのテンポラリーなアートイベントが始まったのではないかと思い、このところ大変興味をもっています。

大森
もう少し批評的なものがでるかなと思ったのですが・・。野外彫刻に変わるアートイベントとアーティストについてのお話でしたが、高須賀先生は御自身のポジショニングのお話が少し抜けていたように思いますし、教育現場で若手を育成されているわけですからそのあたりから今後の可能性などについて一言いただけないでしょうか。

高須賀
非常に難しい問題ですが埼玉大学の教育学部で小学校、中学校、高校の美術の先生になる学生を教えているわけですが、もともとの出身は東京藝大でしたので、いわゆる専門教育から教育学部へですから同じ美術を扱う分野であってもあり方が違うわけです。そこで非常にショックを受けたのは、小学校だとか中学校、高校の現場にいくことが多いのですが、そこで行われている図画工作、美術の時間をみますと、美術専門でやっている立場からするとこれでいいのかなと。いわゆる方法論を伝えるということで美術を整理している。本質的な意味での美術の楽しさや豊かさであるとか、そういうものを伝えられてない現状があるなと感じました。ではどうしようってことはなかなか見付け出せないでいる。
これは美術という教科に留まらず教育全般が抱えているテーマだと思いますが、やはり、多くの人にとって美術や芸術が生活の様々な場面で必要不可欠なものとして認識すること。また、作り手や送り手がそうしたことを伝えていくことじゃないでしょうか。作品のうえでは勿論ですが、この学会の役割の一つにそうしたこともあるように思います。私自身もこれから考えていきたいと思っています。

大森
そういう現場との関わりにおいてはワークショップなど随分精力的に行なっても成果は難しいものだと思います。先程のスライドでは地域と関わることで良い点が随分出たわけですが、ワークショップについてはやればやる程確かに良いとは思いますが、難しいなとも思う課題について何かなかったでしょうか。

谷口
課題はたくさんあるのではないかと思います。作品を見に行くとか作品を学ぶというかたちは近代以降、美術が日本で発展していくなかでいろんな方法が展開されて充実してきていると思います。しかし、自分自身が一緒になって作品をつくったり、それを今は教室型のワークショップを大型化したみたいなものでしかないのですが、もっと創造的な方にもっていく、非常に曖昧な場ですから、創造と学びの曖昧なところにある場所ですので、そういうふうな意味でどういう位置でバランスをとっていったらいいか、いつも難しいなと思います。そのあたりについて企画者また主催者、それから参加者それぞれがうまくシンクロしたときにすばらしい成果がでるのではないかなと思うのですが、そんな場所がどこにあるのかっていうのはまだまだこれから、それこそいろいろ教えていただきながら研究していきたいなと思っています。

大森
そういうことでは、熟練という意味で多くの若い人を指導されてきた吉田先生にお伺いします。若い人に伝統芸能といいますか、伝統芸術であるいけばなを指導する時に、その基本となっているもの以外のもの、いわゆる芸術性のようなものを指導する時の一番難しい点はどういったところでしょうか。

吉田
いけばなの場合は「かた」と言って、形ですとか形式から入っていくわけですが、難しいですね。ですから形式的でなくて楽しいいけばなができないかなということなんですけど。ものを創る人と私の立場は本質的に違います。新宮先生の話を聞いていますと非常に共感する部分が多いのですけど、私はクリエイターというよりは紹介者・司会者の役割をしています。お弟子さん達に申し上げているのは一つ花があったらこの花はこういうところが非常に美しいんですよ、お花は非常に魅力的なんですよと、そういう表現をしなさいと言っているわけです。ですから、最初からものをつくって、組み合わせによって素晴らしいものを造るというわけではなくて、自然が造り出したものを神様仏様がお造りになったものと言っているわけです。そういうものが如何に素晴らしいものであるかということを常に念頭において表現をしなさいと。ですから新宮先生が言っておられる、風がつくり出す目に見えないモノも見せる。偶然性というか自然の造り出すものが魅力的で素晴らしいものであるのと同時に、先程背骨を折られた話もありましたように自然は恐いものでもあるわけです。お花の世界も自然が造り出したものが相手ですから、行為そのものが何のためのものか、何故その行為をするのかということが非常に大事であると。自らつくり出したものではなくて、紹介者の立場を貫きなさいと言っているわけです。

大森
自然そのものとの関わり方についてのなかなか難しいお話で、実はここから突っ込んだ話に展開したいのですが・・、時間もないことですので、最後に新宮先生にいわゆる地球規模で、また御自身の作品を越えて、人に、さらには次世代の方にも自らの考えをお伝えし、また自然の素晴しさをコミュニケーションを通して伝達しようとするにあたって、一番難しいというか、いつも妨げになるようなものがありましたら、お聞かせ願いたいのですが。

新宮
いろんな宿題を残して自分は死ぬんだろうと思うんですが、12月にNHKの「ようこそ先輩」という番組で母校の小学校へ行かなければいけない。そこでNHKが最初に持ってきた話は、風で何か大きなものをつくってもらって、というので、それだけは止めましょう、ということで話を進めています。僕の考えとしては子供達が芸術家になる必要はまったくないわけでして、芸術家である以前に人間としてまともな人間になれるかどうか、もしそんなことができればそれこそがアートだと思うのです。僕は小さいときから絵ばかり描いて育ってまいりましたが、今の子供達はそういった時間もないみたいで、大丈夫かなと他人事ながら心配はしております。番組のテーマとしては「地球と遊ぼう」を考えています。自分達は宇宙人で、もし初めて地球にやって来たら何を感じるだろうか。どういったところを面白いと思うだろうか、どこを変だと思うだろうかという話をして、始めるつもりです。これは僕の勝手な話ですが、最近その番組をみているんですけど、登場した先生がゴールを意識してかすごく番組を早く進めまして、最後にビジュアルに何かが出来上がるのが最初の話で分かるようなものが多いんです。絵描きが出てきたら絵を描くとか、庭師が出てきたら庭を造るとか、それは違うんじゃないかなと思いまして、できれば新宮晋が出て来たからにはこうなるだろうというのを裏切れればいいんじゃないかなと。そういうことが次の世代に教えられることかなと。それで、僕が美術学校で教えるよりは子供に教えるほうが興味あるのもその点でして、出来上がってきて視界が狭くなった人に技術的に何とか、色だとか、形のバランスであるとかを教えるようなことはできるでしょうが・・。将来を心配しております。

大森
一番穏やかな先生に一番厳しい御指摘を最後にされたように思います。
夢舞台もこの景観園芸学校も、自然との関わりの中で生まれた施設・機関でありますし、またここ淡路は日本の発祥の地としての一宮を祀る場所ですから、ある意味で日本の中心でもある一つの地域に全国から今日も集まっていただいております。このような環境の中で皆さんのお話を伺っておりますと、「環境芸術とは何だろう」とそのジャンルを議論するよりは、お話にありましたように、「町おこし」ではなく「人間おこし」をテーマにしたものが環境芸術ではないだろうかという気がしてまいりました。このシンポジウムよって、環境芸術とは作品づくりを通して社会なり地域なり文化なりを、また人間なりというものを形成していく、またはもう一度考え直していくというような切っ掛け造りをすることであり、さらにはその切っ掛け造りをしようとしている人達が、この学会員として活躍できればというように改めて思いました。
時間の都合で会場からの質問を残念ながらお受けすることができませんが、個々の疑問は今後への課題といたしまして、これにて終了させていただきます。本日は本当に皆さま有り難うございました。